ミニつぼの誕生

原初のミニつぼ

縦・横・奥行き・40mm。  ミニつぼ は 何時、何処で、どうして、産まれたのか!?。生活に、何に、使うのか?。飾り物??何のために作ったのか。

半世紀以上前、積み上げられたコンテナを、見上げながら、ユダヤ人バイヤーが「では、、、、!!」と笑顔で手を振った窯元の庭先でした。コンテナが遠く運ばれたのはヨーロッパです。それが花のパリか、ドイツ?イギリス?の片田舎の街か、今はわかりません。コンテナの中は、ミニつぼでした。

その窯は、古くから陶器、生活雑貨の生産地、愛知県・瀬戸市にあります。”瀬戸物”というより、藤井聡太名人が生まれた町、将棋ブームに沸く瀬戸市にあります。40数年前、窯元は沢山の新製品を携えて東京・台東区、今はインバウンドで賑わっている浅草寺近くの産業会館(現 都立産業貿易センター台東館)の物産見本市に出向したのです。新製品が山積みされた、その一角、隅に小さな焦げ茶色の小箱があり、中にミニつぼがありました。見本市が終わるとすぐに窯元を訪ねました。

ミニつぼ、、、、、、、。扱いたいと思ったのには、思い出、きっかけがあります。台東館で、見かける前々年、伊豆下田、伊豆急電鉄、下田駅前に民藝品店がありました。手造りの様々な工芸品を扱い、店も時代物の素晴らしい建物で、その2階では、ときに、東京から招いて講談会なども行われていました。その店にミニチュアサイズの花卉が売られていました。素晴らしい焼き物売価¥500円。(勿論、消費税はありません。)店の女主人にお願いして其の花卉を作っている処、人を訪ねて行きました。そこは店から数キロ先の打ち寄せる波を眼下にする岸壁にありました。太い孟宗に囲まれた質素な家屋でした。定年で退官した大学教授が前にしていたのは、ほんの小さな電気釜。丁寧な造形、真摯な釉薬使いです。時折、風が孟宗を吹き抜けて行く曇天の午後でした。

扱い始めて、すぐに、伊豆、浜松、鎌倉で大変、喜んでいただきました。1年ほど経った頃、同じ釜元のミニつぼが伊豆の土産品店で売られ始めました。売価は駅前の民芸品店のあのつぼと同じ¥500円です。そこで、考えました。先々、このミニつぼを続けるためには、弊店、固有のつぼを窯元に新しく作ってもらおうと。最初に作ってもらったのが”まる”です。初めの粘土型から、数度の段階を経て、商品化の型まで関わって作ってもらいました。マル、丸、まんまるの壺。はじめ単色の釉薬で大好評でした。今は、二色の釉薬を流して色付けする丸、”風車”と呼んでいます。

それから、いくつか作りました。

弥生時代 登呂遺跡出土の壺

醤油差し

介護用差し込み便器

蕎麦猪口

沖縄酒器 

なかでも、差し込み便器は、最初の粘土型から、それは駄目だ、ああしろ、もっと思い切りひねれ!等と粘土型に取り組んでくれた職人さんとやり取りをしました。その頃はタブレット、スマホもありませんでしたから郵便の写真のやり取りでした。おかげで、この型は好評で最も多くの個数を焼いてもらっています。しかし、これまで、永く扱っていますが、一番売れた、売れるのは、矢張り、ヨーロッパに渡ったあの船に載っていたツボたち。カタログのNo01からNo40までのツボたちです。

端ッしょって、半世紀がたちます。ミニつぼはいま、苦境に立たされています。焼き物以外の新製品、生活環境の変化か、窯に火が入ることも遠くなりました。以前は、週1、10日には窯に火が入り、大きなものたちの間や隅に置かれたミニつぼが焚かれ、欠品は最大二週、14日で、補填できました。しかし今、小さな、縦・横・幅・40mmの壺たちが窯を占拠し火を入れてもらうことは不可能です。

でも、なんとか、ミニつぼは絶えません。 縦・横・幅・40mmは、ほかにはありません。此処にあると。